サインのはなし

ライター、作家、ジャーナリスト、なんでもいいがそうした物書き業者というのは、いわゆる「サイン」というものをもつべきなのだろうか。
サインと言っても書類への署名としての走り書きではない。ファンサービスとして色紙に書き込む、のたくりミミズのようなあちらの方である。

もちろん「サイン本」という概念が存在する以上、物書きが独自のサインを備えているのは一般的に見てもおかしなことではないはずだ。

だが、僕はどうにもそれが気恥ずかしく、長らくサインというものを用意していなかった。
「自分はあくまで一介の駆け出しライターであり、芸能人でもスポーツ選手でもないのだ。サインなど自惚れも甚だしい」という考えである。

稀な機会として、出版記念のサイン会や、トークショー後の歓談タイムでサインを求められることもあった。その場合は見開きや色紙の一面にデカデカと楷書で「平坂寛」と筆圧激強で書き込んできた。それでいいと思っていた。

が、最近になって転機が訪れた。
テレビの撮影でクルーやタレントさん達と宿泊した民宿でのこと。最後の夜にご主人がタレントさんにサインを書いてもらっていた。宿の受付に飾るのだという。
そのやりとりを微笑ましく見ていたところ、なんとご主人は僕にもサインを求めてきた。絶対に僕のことなんか知りもしないだろうに。

「僕は有名人じゃないですよ」とやんわり返すと、「テレビに出てる人はみんな芸能人でしょう」とわかるようなわからないような持論をもちだしてきた。これには断る理由を無くした。

達筆に色紙へミミズをのたくらせるタレントを傍目に、のろのろと楷書で署名を施す。

並べてみると、オブジェクトとしての見栄え、完成度、存在感は段違いに程度が低い。だがこれでいいのだ。自分はこういう立場の人間であるし、こうあらねばならないのだ。
しょうもないサインは調子こいてない証である。誇らしく思うばかりだ。

問題は後日に発覚した。
実はその宿をすっかり気に入り、ご主人とも仲良くなったため、後日にプライベートで訪問、宿泊することとなったのだ。挨拶をしながら受付に向かうと、なんと有名人らの見事なサインと並んで、惨たらしい楷書が掲げてあるではないか。

顔から火が出る思いがした。晒し上げもいいところである。
しかも楷書であるがため、だれが見ても「平坂寛」とくっきり読めてしまう。

「え、平坂って誰w」

という宿泊客らの困惑、嘲笑と、平坂とは何者かをしどろもどろに説明する主人、その後に流れる気まずい空気がありありと想像できる。

これはまずい。どうにか取り下げてもらえるよう懇願したが「思い出の品だから」「立派なサインじゃないか」と聞き入れてもらえない。これはキツいっすよ。

今後、このような悲劇を繰り返してはならない。
その日を境に、楷書ベースではあるものの、若干のミミズのたくり感を加えた「それっぽいサイン」に仕立てるようにした。
あくまで楷書ベースなのは「自分はあくまで一介の駆け出しライターであり、芸能人でもスポーツ選手でもないのだ。サインなど自惚れも甚だしい」とのたまっていた「カッコつけないのが逆にカッコいいっしょ」な過去の自分への義理立てである。

そんなこんなでかろうじて「サインらしいサイン」を身に付けたのであるが、ちょうど時を同じくしてコロナ禍が到来した。
これによってイベントはもちろん、市街地への外出もほとんどしなくなったわけである。当然、サインなど長らく求められていない。

「それっぽい方」のサインは技術定着していなかったので、おそらくもう書き方を忘れているだろう。
もしサインを求められる機会が再来したとしても、また楷書からリスタートである。

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